定福院の歴史

定福院の歴史

定福院は、埼玉県久喜市(旧栗橋町)にある真言宗豊山派の寺院です。創建からおよそ800年、地域とともに歩んできた定福院の歴史をひもときます。

真言宗豊山派
としての定福院

真言宗は、弘法大師・空海によって開かれた密教の一大宗派です。伝教大師・最澄が開いた天台宗と並び、日本における二大密教の一つとされています。

真言宗は「古義」と「新義」に分かれ、平安時代末には興教大師・覚鑁の教えを継ぐ「新義真言宗」が誕生。根来寺を本山として発展しましたが、1585年の豊臣秀吉による焼き討ち後、「豊山派」と「智山派」に分かれます。

定福院は、当初は京都・御室仁和寺の末寺でしたが、明治初頭より大和・長谷寺を本山とする豊山派の直末寺として歩んでまいりました。

鎌倉時代:
創建と佐間地域のはじまり

文永2年(1265年)、高柳行空により「定福密寺」として創建されたのが、定福院のはじまりです。

当時の佐間地域は、浅間川や利根川などの旧河川に沿った高台に位置し、鎌倉道が通る交通の要衝でした。「河岸のうち」と呼ばれる家々や、鎌倉期の板碑・五輪塔などが今も残っています。

佐間・高柳・島川には土豪や地頭が館や陣屋を構えていたとされ、定福院のある場所もその一角であった可能性があります。

茅葺屋根の阿彌陀薬師堂

南北朝〜室町時代:
高柳家と地域の発展

高柳家は、藤原秀郷の子孫にあたる名家で、この地域の開発を担っていたと考えられています。やがて本領を奥州に移し、所領の一部は鶴岡八幡宮に寄進されました。

板碑の分布や「佐間四十七」と呼ばれた区域から、旧静地区一帯が中心として広がり、佐間は南北朝期に急速に発展したと推測されます。

また、この時期には静御前の伝説も残されています。

江戸初期:
行清法印と中興開山


江戸時代初期、行清法印により定福院は再び活気を取り戻します。行清法印は高柳氏の末裔で、仁和寺の塔頭・眞乗院で修行を積んだ後、未開の地であった佐間に阿彌陀堂を中心とした寺院を開きました。

本尊には定福の不動明王を、鎮守には八幡大菩薩を祀り、中興開山としての礎を築きました。当時の阿彌陀堂の格天井には「眞乗院」や「元禄」の墨書が残されており、往時の信仰の姿を今に伝えています。

阿弥陀堂天井画(修正)

江戸時代:
伽藍の整備と発展

江戸時代に入り、定福院は御室仁和寺末の二色格の寺院として格式を整え、本堂・山門・庫裏・阿彌陀堂などの伽藍を備えました。境内地も一町三反余に及び、整備された寺院としての体裁を築いていきます。

第二世・来運は東光寺の弟子であり、この時期には東光寺の門徒ともなっていました。

明治〜大正時代:
神仏分離と再建


明治維新後の神仏分離により、八幡神社と定福院は行政上分離されました。第十六世・宥昌住職は、地域の子どもたちのために寺子屋を開き、これが後の佐間学校、尋常小学校へと発展していきます。

大正期には本山が仁和寺から長谷寺へと変わり、関東大震災では本堂が倒壊。その後すぐに地域の皆様の協力により再建されました。

大正年間震災後本堂上棟式写真